私が自分の生きづらさと向き合い出して10年以上、そのうち「HSP」を知ったのがここ2年半。ようやく、自分の取扱い説明書が自分で理解できた気がします。実に長かったです。
私は全てのきっかけが「生きづらい」という切り口ではなく、「自分が嫌い」で「孤独感が強い」でした。当時はスマホもないですし、インターネットはまだ一般的ではありませんでしたが、その当時の私がスマホを持ったら「自分が嫌い」で検索かけていたと思います。当時の私の情報源は全て本。大学生になって本屋のバイトをしていたのでスピ系の本を読み漁り、どうしたらこの息苦しさから抜け出せるのかをずっと探していました。知識は増える一方ですが、いつも心に渦巻く何かが消えることはありませんでした。今思うと病んでいましたね。
今では心療内科などは身近な存在なのかも知れませんが、当時心の病院に行くという選択肢は恥というか私の辞書には存在していませんでした。そんな私が本から一歩進んで第三者に頼ることになったのが社会人1年目の出会いがきっかけでした。スピ系セラピストとご縁が深い人が同僚にいて、紹介していだたいたことでした。それで第三者を頼ることに抵抗がなくなった私はありとあらゆることを試し自分に一番合う方を見つけて今に至ります。
前置きが長くなりました。すみません。
最近では書店に「HSP」関連の本が多く並び、インターネットでも「生きづらい」と調べると「HSP」が上位に出てくるそうです。まだまだ一般的ではないとは言え、「HSP」という言葉が自分探しの入口になった方とHSPお茶会(現在はオフ会)で多く出会います。HSPを知って「自分のことがそのまま本に書いてある」と”怖いほど当たる占い”くらいの衝撃を受けた方も多いのです。
子供の頃に精神病として病院に連れて行かれそうになった経験を持つ方もいたり、もしかしたらずっと入院している方の中にもいらっしゃるかも知れないと思うと心が痛みます。
子供の頃から生きづらさを抱える人にとって「HSP」という枠組みそのものが救いになっているのは間違いなさそうなのですが、HSPを詳しく知ろうとすればするほど分からなくなってきているのは私だけなのでしょうか。
「空気が読める」という特徴で言えば欧米人より日本人は得意なので、”皆当てはまっちゃうのでは?”だから”HSPとはDOESに当てはまることが本当のHSP”という定義づけの議論になってしまったり、あと「アダルトチルドレン」も後天的特性ではあったとしても同じような生きづらさを抱えるので自分はどっちなんだろうとか。発達障がいとの云々などを考え出すと分からなくなったり。
生きやすくなる(もしくは生きづらさを軽減する)のが目的だったはずが、深みにハマると生きづらさの原因探しに躍起になっている。そうではなくても、非HSPや毒親への恨みが大きくなってしまったりもあるようです。それが悪いわけではありません。それで心が軽くなるのであればそれも一つの方法なのかも知れません。
セラピストとして活動をする私ですが、学者になりたい訳ではないので私なりの「HSP」をサポートして行く方法しかないと思っています。「HSPの自己診断チェックリストに当てはまればHSPだと思って良い、ただし程度は客観性が必要」と講演会で十勝むつみクリニックの長沼先生(HSPの専門医をされています)も仰っていて、私もそれで良いと思います。まずはご自身が楽になることが大切だと思うからです。ご自身が信じるものを他者が何かを言う必要はないので。
私が生きづらさを軽減できたのは「心が自由になれた」からなのです。
孤独感が強いと思っていたのですが、皆本当は孤独だったのです。
孤立と孤独を混同していたのもあるかも知れません。私の代わりに私になれる人はいません。我が身のように可愛い我が子でもそれは無理です。(私に子供はいませんが)それは本当に孤独な戦いのようでもあります。そんな孤独同士が時には集まり、そしてまたそれぞれの役割に戻って行く。
一人が寂しいという人は孤立しているように感じるのかも知れません。私のようにあまり寂しさを感じないのも一生独り身の可能性も高まり、問題なのかも知れないので何事も一長一短であるということは敢えてお伝えしたいと思います(汗)
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