先日、地元の図書館に立ち寄ってたまたま手に取った自己啓発本に
「つまらない自尊心は捨てろ」
と書いてあって、”自尊心は捨てたらいかん”と私は思ったのですが、よく読むと
著者の言う自尊心と私の自尊心は定義が違っていることがわかりました。
その著者の言う自尊心は私の言葉では”自分への期待”なんですよね。
”期待”という言葉も一般に使われてる言葉とちょっと違うかも知れません。
「活躍を期待してます」みたいな言葉だと”願ってます”とイコールに聞こえる場合がありますが、私の言葉の中では「期待」はもっと狭い意味で使います。例えば「親の期待に応える」の”期待”が私の「期待」なんです。
期待は負担になるようなイメージのもの。
”自分に期待する”というのは、心理学の言葉だと「理想自我」に当たると思います。こうであったらいいなというくらいなら良いですが、それが自分を苦しめることがあります。
理想には社会一般的な理想がかなり強く入ります。
普通の人みたいに働けて、そこそこのお金とそこそこの恋人/配偶者がいることだったり、
たくさんの友達に囲まれることだったり、
誰かの役に立つ仕事をすることだったり、
それなりの肩書きを得ることだったり。
”自分の理想はさほど高くない”と思っても、社会一般の人にそれなりに認められるのは意外に難しいのです。
これらのような理想は全て”アクセサリー”のようなもので「期待」です。
そうなったら良いに越したことはないけど。。。くらいなものです。
自分が情けない気持ちになった時は、そんな理想を自分に無理に要求していないか少し内省してみるといいかも知れません。
もし、仮にそれらを手に入れたとして、周りからも認められたとします。
分かりやすいようにあなたが超美人の超有名モデルだったとします。
美貌も地位も名誉もお金も全て手に入れています。あなたの周りにもたくさん人が集まり、あなたの美しい顔、あなたの肩書き、あなたのお金をたくさん褒めてくれて何でも言うことを聞いてくれます。
最初はきっと嬉しいはずですが、でもそれが本当の本当に幸せなんでしょうか。
よく、頂点にまで登った有名人が崖を転がり落ちるような事件を起こすようなことがあります。
想像ですが、肩書き付きのその人が一人歩きしてしまって、素の本人そのものが取り残され自暴自棄になってしまったんじゃないかと思うのです。
キラキラしたアクセサリー(地位、名誉、お金、肩書き、学歴など)であればあるほどたくさん人が寄ってきます。ですが、それが素の自分に寄ってきた訳ではないことがだんだんわかってきます。何にもない素のままの自分じゃ価値がないように思える。
「自尊心」というのは私の中ではその”何もない素の自分”を大切に思う気持ちだと思っています。
最初の話に戻りますが、私の手に取った本にあった「つまらない自尊心」という言葉は高い学歴に対してバカにされた人に対して書いていたので、単に”アクセサリーへの執着心”を捨てなさいと言っていたのでした。
アクセサリー。
キラキラしていて綺麗ですよね。
たくさんの人にすごいと言ってもらえて輝いて眩しい。
羨ましい。
輝いている人を見ると自分に価値がないと言われてる気がして。
でもそんな時には「”今の何にもない私”を”いい”と言ってくれる人が一人でもいればいいじゃないか」と自分に伝えます。
自分らしく生きることと、他の人から認められることは別問題。
自分らしさは引き算だと思います。何かを得る足し算ではなく。
自分らしくなる中で仲間が増えればそれは素晴らしいことだけど、目的にはしたくない。自分のために。
色々な人に関わる中でたくさん痛みが伴います。大きく動揺するようなこともありますし、そうでなくても、ちょっとした小さなガラスの破片が飛んでくるみたいにチクッ、チクッと刺さることもあります。自分の発した言葉がブーメランみたいに自分に返ってくることもあります。
「期待」を手放して自分らしくなる中で減ってくる痛みがあります。それは私の実感です。
それでも残る痛みは良心からくる痛み。人として失ってはいけない痛み。むしろ大切にしなければならない痛みです。
心が痛む時。
それは良心から来る痛みなのか、自分を含めた誰かの期待を裏切った痛みなのか。
”期待”も応えて成立する(ギブアンドテイク)関係と応えないことが愛につながる関係があるのですが、またそれは別の機会に。
ありがとうございます。
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