幸せになるのがこわい。

こんにちは。
たましいの世話人、未泱(みおう)です。

HSPの提唱者、エレイン・N・アーロンさんが書いた『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』の改訂本が昨年出ていたのをご存知でしたでしょうか。

そのタイトルが

「敏感すぎる私の活かし方」

となっていました。

一部加筆・修正はあるものの基本的な部分は変わらないはずなのに、タイトルの印象も変わるだけでイメージが変わりますね。


私は哲学的に考えるのが好きなのですが、

そもそも

「私を活かす」とはなんでしょう?


問いかけです。


人の役に立つこと?
周りの環境と自分を融合させること?
自分を好きになること?
自分を知ること?


他にも考えられますし、皆さんにとってはいかがでしょうか。


哲学的な問いには正解はありません。


が、「私を活かした」ら自分の幸せに繋がりそうではありますね。

そして最近気づいたのですが、「私を活かす」ことは自分にとっても周りにとってもプラスになることなんですね。

だったら私は幸せになる必要があるとは思えてきました。



が、

よしじゃあ「幸せになるぞ」と思ったのですが、自分が幸せになることに罪悪感、制限があることに気づいたのです。

案外他者の"それ"には気づきますが、

自分の"それ"は自覚しづらいようなのです。



他者の"それ"は例えば母。


母は若い頃から我慢し続けてる人なのです。

子供もとうに成人してますし別に縛るものがないのに

好きなことをやろうとはしません。

旅行が好きな人なので体が動くうちにドンドン行けばと勧めるのですが(コロナ前でも)、

「だって、○○だし」

と行かないのです。

ほんの小さなこと、

歯の治療ですら、今の歯科医院では自分に合う治療は受けられないとわかっているのに

「次の先生だって○○に違いない」

と新しい歯科医院に動く気配はありません。


私は客観的に見て、自分で自分を幸せにするのがこわいんだなと思うのです。


"幸せ"と言うと大袈裟に聞こえるかも知れませんが、

"幸せ"というものや"自分を好きになる"というのをとてつもなく大きいものと考えてる方が少なくありません。

本当はものすごく自然なことです。

例えば歯の治療もうまく行けば、もっと美味しくご飯が食べられるとかそんな程度も"幸せ"の一つです。

メイクしたり、お洒落したりすることも"自分を好きになりたい"からなのです。推しや好きなものを追いかけることもそうです。

もし"幸せ"や"自分を好きになる"という言葉自体にウッと抵抗感がある方は、ご自身がどういうことを"幸せ"や"自分を好きになる"と思っているかを考えていただいて、あまりに大きいことだと捉えているようであればもっと日常の些細なことであると思い出してくださいね。


話を戻して、そんな小さな幸せにも母は制限をかけているのです。


そしてそれをある意味で手本として刷り込まれている娘の私。


ふと気がつくと、私も同じように「〜したら?」という信頼する方から勧めに対して「だって○○だし」と逃げているのです。


結局は私も幸せになるのがこわいんでしょうね。


自分のやりたいことにも動けない母に呆れていたのですが、自分も同じだったという脱力感。


HSPという観点で言えば敏感過ぎて傷つくのが怖いという見方もできますが、


本当にそれで良いのかは

また別の問題として

自分に問い続けないといけないなと思います。

お読みいただきありがとうございます。




感受性を活かす癒しサロン PRINTEMPS*BLANC

名古屋市のほどよい田舎感が残る場所にあります、癒しのサロンPRINTEMPS*BLANC(プランタン・ブラン)のホームページです。 "繊細さん"として浸透して来たHSPという概念。当サロンではHSPの強みでもある豊かな感受性を使ってより自分らしい花を咲かせられるようにお手伝いします。「自分の内側の声を聴く傾聴セッション」はHSPだけでなく自己探究をしている方にも受けていただけます。

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