「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。(中略)生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」『夜と霧』(ヴィクトール・E・フランクル著)
ついつい暇があるとスマホを手にしてしまう今日この頃ですが、月末になるとパケットが残り少なくなり、節約をしなければなりません。その手持ち無沙汰な時間を読みかけの本を読む時間に充てることに。
『夜と霧』は精神科医である著者がナチスドイツの強制収容所にいれられてしまった時の体験が綴られています。
究極の生きる地獄とも言える環境でどのような心持ちで生き長らえたかが書かれており、精神科医としての立場で書かれているので大変興味深いのです。
その本の中でこんなことも書かれています。
「もともと精神的な生活をいとなんでいた感受性の強い人びとが、その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、豊かな内面へと立ちもどる道が開けていた。繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。」
感受性の強い人の方が残酷な状況の中でも内面を深めていったというのは、救いの言葉のように感じられます。
自分はなんでこんなに難しく考え過ぎてしまうのだろうと思ったりもしますから。
確かに、私たちを一番成長させてくれるのは辛い状況を乗り越えた時です。
同じくこの本に書かれているように「苦しむということはなにかをなしとげるということなのでしょう」
ただし、成し遂げた何かとは誰かからの承認や富や名声などの現実世界から与えられるという類いのものではないのです。
これは内面の充実であったり、人生そのものに対する充足感という無形なものであることの方を言っているのだと思います。
私は最近思うのです。
この世は映画「マトリックス」のようなのではないかと。
映画の内容ついてはこの場では触れませんが、そう思うと『夜と霧』で名言と言われる
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」がすんなり腑に落ちるのです。
「私は何をする為に生まれたのか」
「私はなぜ"普通"になれないのか」
など、私たちから人生に問いかけてしまいますが、実は人生から問われている立場なのだと。
それがこの記事の一番最初のカッコ書きに繋がっていきます。
"あちら側の世界"から回ってきたカードにはノーが言えず、私たちはそれに精一杯取り組む存在なのですね。
まさに修行。
でも、カードが回ってきたと言うことは同時に乗り越えられるという意味でもあります。
もちろんすぐに答えが出せなくても、休みながらでも、時間がかかってもいいのです。
"あちら側の世界"には「時間」という概念が"こちら側の世界"とは違いますので一生かけて取り組んでもよいのです。
最近傾聴セッションで、100枚近くの質問カードの中から数枚ランダムに引いて「問いかけ」をしながら対話をすることをしていますが実は人生そのものと同じなのかもと思った今日この頃です。
傾聴セッションはマンツーマンで開催ですので感染予防対策をしながら現在も受けていただけます。
よければ、「問いかけ」を体験してみませんか?
話の上手い下手は関係ありません。
人生と同じく、今の精一杯で取り組むということだけで大丈夫です。
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